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0079   記事:   “ウォーキングの会” 第248回 昔を訪ねて日吉の裏道巡り報告書

3M悠々クラ“ウォーキングの会”

第248回 昔を訪ねて日吉の裏道巡り報告書

2025年11月19日

日吉はかつて水田の広がる農村地帯でしたが、1926年(大正15年)に東京横浜電鉄(現在の東急東横線)の開業と、慶應義塾大学の移転(1934年)を機に発展し、駅周辺の土地が開発され、現在の街並みが形成されました。東急電鉄の発祥の地としても知られ、かつては巨大な記念碑も設置されていました。

11月18日(火)10:00肌寒い曇天の中、東急東横線及び目黒線日吉駅西口に14名が集合しました。

 

    

普通部通りを進み、慶應義塾普通部の横を通り、左手に大きな森を見ながらしばらく歩くと日吉の丘公園に出ました。

 

  

1. 日吉の丘公園

 

丘陵地が多い横浜市。港北区箕輪町にある「日吉の丘公園」は、丘の上に位置する公園です。遊具はなく、木々が生い茂る中に広場があります。親子で森林浴気分を楽しみたい日、緑が多い広場でのんびりと癒されたい日にピッタリです。
公園愛護会の方々が桜のお手入れをしたり、花畑に種まきをしたりしているおかげで、綺麗で心休まる雰囲気になっています。
また、西側は見晴らしが良く、冬は富士山が見られると言うことでしたが、生憎の曇天で見ることが出来ませんでした。
更に進むと下りの長い階段が現れました。そこを下りますと箕輪洞谷横穴墓群跡が現れました。

2. 箕輪洞谷横穴墓群跡

日吉の街が広がる日吉台台地が、南に付き出した部分の、南東向き崖面に構築されています。2001年2月、当時の横浜市緑政局(現在の環境創造局)が台地の上に「日吉の丘公園」を開設する都合で、この崖面に崩落防止用の擁壁設置工事を行っていました。その際に横浜市の埋蔵文化財センター職員が現地を確認したところ、崖面中腹に横穴が5つあるのを発見しました。この発見により、急遽崖面に足場を組んで3月から発掘調査が行われることになりました。
遺跡名は、かつてこの辺りを「洞谷(どうやと)」と呼んでいたとする地域住民の証言を得たため「箕輪洞谷横穴墓群」と決まりました。それまでこの場所は遺跡のある場所だと認識されていなかったが、洞窟を連想させる「洞」の付く古地名からして、古くは横穴墓の存在が認識されていた可能性があるといいます。計9基の横穴墓が発見・調査され、分布状況から墓群には幾つかのグループが存在する事がわかったが、すでに古い時代に崖面が削れ、全ての横穴墓で前庭部(墓前祭祀を行う墓穴の前の広場)を失い、羨道・玄室部も大半の横穴で欠損しており、本来はより多くの横穴が存在していたであろう事が示唆されました。
発掘された横穴墓は、玄室の横断面形がアーチ形(カマボコ形)で、縦断面形は天井が奥壁から入口に向けて低く傾き、玄室平面形は奥壁側が広くなる台形を呈するものでありました。また、幾つかには玄室床面に河原石が敷かれていました。出土品は須恵器や両頭金具(弓に取り付けられた装飾金具)、鉄鏃、玉などで、出土品年代により7世紀中頃から終わり頃までのおよそ50年間に造られた横穴墓と推定されました。
調査後は崖面に擁壁が貼られ、横穴墓群は完全に壁内に封印されることとなったが、横浜市教育委員会により擁壁の表面に横穴墓の発見位置を示す陰刻が刻まれ、麓に解説板が置かれた[1]。参考資料や知名度は少ないが、港北区散策コースの一部になっています。

更に進み、ぶつかった道を左折し、しばらく歩くと左側に大聖院が現れました。

3. 大聖院

 

天台宗寺院の大聖院は、景谷山東観寺と号します。大聖院は、慈覚大師が開基となり大同年間(806-809)に建立、什吽法印が文永元年(1264)に開山したといいます。その後永享元年(1429年)に忠含(永享12年寂)が中興したといいます。准秩父三十四観音霊場24番です。境内にカリンの木があり、たくさんの実がなっていました。

大聖院の前の道を進みますと左手に諏訪神社が現れました。
4. 諏訪神社

 

室町時代前期の文安元年、箕輪村の鎮守として祭られ、御神体は長さ六寸の木像で、三間に二間の拝殿が本社に造り添えられ、前には木の鳥居が建ち、例祭日は七月二十四日であった、と新編武蔵風土記稿に記されています。また、江戸時代、安永五年の同村景谷山東観寺大聖院の記録には、その“支配宮”であったことが明記されています。
年経て、大正三年十月八日、部落内に鎮座する御嶽社・稲荷社・天神社・神明社・厳島神社・道祖神を合併し、箕輪の総鎮守として崇敬され、現今の発展を見るに至っています。

   

諏訪神社を出て東に進み、東急東横線にぶつかりますが地下道があるので進むと綱島街道にぶつかりました、綱島街道を北に進み、消防署日吉出張所の先を右折して進みます。途中左手に慶應義塾大学の陸上競技場やグラウンドを見ることが出来ました。

道がだんだん細くなり長い下り階段になりました。その先の細い道を左に行きますと、新幹線の線路を超えました。上から新幹線を眺めるのは珍しく、皆、写真を撮っていました。

  

       

その後広い道に出る直前に、左の脇道を進むと熊野神社が左手に現れました。
5. 熊野神社

 

創立年代は詳らかではないが武蔵風土記稿に「熊野社、村の中ほど丘の半腹にあり、社地に古松茂り古き宮地とみゆ」と記され、篤い崇敬を集め、社殿は天保五年、大正十二年、昭和四十九年に改築され今に至ります。

熊野神社を出て少し歩くと広い道に出ます。少し歩いて右折し新幹線のガード下を進んで少し行くと左手に保福禅寺がありました。
6. 保福禅寺

 

曹洞宗寺院の保福禅寺は、谷上山と号します。保福禅寺は、中田加賀守某が基となり、八王子心源院第六世春悦が開闢、その後春悦が小机雲松院の住僧楞室(寛永15年1638年寂)に譲ったことから、楞室が開山となったといいます稲毛六阿弥陀1番、都築橘樹酉年地蔵尊霊場12番です。創立は、中臣鎌足が東国に来たとき、この亀島に船を寄せてたちをひとふりおさめて旅の安泰を祈ったことが始まりであると伝えられ、鎭際は、天智天皇の4年(665)と伝えられる区内で最も古い寺社です。
ここで、記念写真を撮り、次回のウォーキングコースの紹介・説明を行いました。

保福禅寺を出てさらに進み、慶應義塾大学馬術部馬場の横を通り、日吉駅を目指し、解散しました。約9000歩1時間半のウォーキングでした。

次回は249回「善福寺池を巡り善福寺を参拝する」です。
日  時:2025年(令和7年)12月18日(木)午前10時集合
集合場所:JR中央線西荻窪駅改札口を出て北口に集合
概  略:善福寺池を中心にみどり豊かな整然とした街並みの続く地域です。この地域が含まれる武蔵野台地の標高50mの等高線上には湧水が発達し、善福寺池、三方寺池、井の頭池があります。善福寺池の水源である遅の井はかつて豊富な水量でしたが、現在は地下水の汲み上げで、川沿いの湧水もわずかとなりました。
コ ー ス:西荻窪駅→はだしのオアシス→善福寺公園→善福寺→市杵嶋神社→遅の井の滝→内田秀五郎翁像→西荻窪駅
約5km、7000歩程度の平坦なコースです。

記事
川俣裕章