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タイトル:   第25回行事
第25回行事
 
 2008年11月13日(木)江戸城散策 26名が参加しました。
 毎回会員の皆さんには、事前に行事案内として資料をお送りしておりますが、その資料の内容は素晴らしいものです。
 会員でないお方にも是非ご覧いただければということで、今回ホームページに以下の通りその資料を掲載することに
 いたしました。ご興味のあるお方は、是非ご覧ください。
 
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江戸文化を訪ねる・江戸城(11・13・‘08)
 
 江戸城は、12世紀のはじめ、桓武平氏秩父氏の流れをくむ江戸重継が、武蔵国荏原郡桜田郷の江戸湾をのぞむ台地に築城したのがはじまり、その子の重長が源頼朝に重用され武蔵国衛の指揮を任された。その場所は、後の江戸城本丸台地上と推定されている。その後、長元六(1457)年関東官領扇谷上杉氏の家宰太田資長(道灌)が、此の地に築城、関東の名城として知られていた。道灌が、文明8(1486)年上杉氏に謀殺された後、上杉氏のものとなったが、大永4(1524)年北条氏綱に敗れたあとは後北条氏の領する支城の一つとなった。天正18(1590)年豊臣秀吉の小田原城攻めで北条市が敗れたのち,関東に移封された徳川家康の居城となった。家康入城当時は、さびれた田舎城にすぎなかったが、平川下流の湿地や江戸湾の埋め立て、更に西丸(現皇居宮殿あたり)を築いてその廃土で日比谷入江を埋め立て平地化した。幕府開創後は諸大名に御手伝普請(天下普請)を課して神田山などを堀崩して、日本橋辺りから新橋辺りまでの海岸を埋め立て市街地化。一方で、城の大拡張を行い、家光の寛永13(1636)年にようやく完成。然し五層の天守閣は明暦3(1657)年の大火で焼失後は保科正之の意見で再建されず。江戸時代の江戸城は、本丸・二の丸・三の丸・西の丸・吹き上げ・北の丸で構成される。

桜田門と桜田門外の変
 此のあたりは昔は此の付近に桜が多く、桜田郷といわれていたという。西丸西南隅の門で、内桜田門(桔梗門)に対して外桜田門とも呼ばれ、古くは小田原口と称され小田原街道の始点だった。家康入城以前、江戸城が小田原北条氏の支城だった名残か。桜田門は、江戸城に多い外枡形に造られた渡櫓門。
 万延元(1860)年3月、尊皇攘夷派の水戸浪士らが大老井伊直弼(1815-60)を桜田門外で襲撃殺害した事件。勅許のないまま、日米修好通商条約を終結・水戸藩から勅嬢返上の圧力・安政の大獄などへの抗議からで、此の後公武合体の方向へ転換。

二重橋
 江戸時代、元皇居正門(俗称めがね橋)を西丸大手門とし、その前の橋を西丸大手橋とよび、西丸下乗門の手前は西丸下乗橋と呼ばれた。此の橋は、深く切り込んだ台地の両端に架けられているため、工法上台地の途中に橋桁を構築し、その上更に橋を組む二段造りとなっている事から俗称二重橋と呼ばれた。
元は何れも木橋であったが、明治宮殿造営に際し二重橋は鉄橋に正門前の橋は石橋に。

江戸城西丸(現 皇居宮殿のあたり)
 家康が隠居所を建てた事にはじまる。その後、寛永元(1624)年、本格的な西の丸御殿が造営され、将軍職を引退した秀忠が移り、以後大御所になった前将軍あるいは時期将軍になる嗣子の居所、また本丸御殿が焼失した場合の将軍の一時的な居所として使われた。西の丸御殿は、本丸同様、表・中奥・大奥と本丸御殿に準じた構成。

城下門と城下門外の変
 坂下門は、江戸城西丸裏手門や紅葉山へ通ずる門であった。明治21年明治宮殿造営にあたり、枡形を廃止して高麗門を撤去し、北向きの渡櫓門を東向きに変えた。文久2(1862)年1月水戸浪士らが老中安藤信正(信行)(1819-71)を坂下門外に襲撃した事件。首席老中久世広周(1819-64)との公武合体政策・水戸藩士による高輪東禅寺のイギリス公使館襲撃事件(1861年7月)及び(1862年6月)で、水戸藩の家老を免職した事などに抗議。信正は負傷、面目を失墜し辞職。以後尊皇攘夷運動が盛んになった。

大手門・桔梗門(内桜田門)
 諸大名が登城するのは、大手門・内桜田門の二箇所。毎月一日・十五日・二十八日の定例の登城日や、正月三が日・五節句・八朔・謡い始め・嘉定・玄猪などの行事の日には、諸大名・諸役人が行列を仕立てて登城。乗り物(駕籠)が認められている大名や一部の役人は、下乗所(本丸は大手三の門・西丸は西丸大手橋際)で乗り物から降りて徒歩で行く。御三家だけは例外で中雀門(本丸玄関前門)まで乗り物で入ることが許された。残された従者は、そのまま下城まで供侍で待った。供侍は太い柱と土間で出来た長さ60間奥行き6-7間ほどの建物だが、総登城のときは御三家や老中・若年寄の従者の他は入れず、土の上に下座敷というものを敷いて座ったり、鋏箱に腰掛けて待つ者もいた。登城の順番にも決まりがあった。普通の日は、まず月番の若年寄・他の若年寄が登城、下乗所で落ち合って殿中へ、次いで月番の老中・他の老中が下乗所で落ち合ってから殿中へのぼり、老中・若年寄は通常四つ(午前10時)に出仕、八つ(午後2時)に退出。式日の総登城のときは一般の大名は老中や若年寄より前に登城するが、その順番を守るのに西丸の太鼓櫓の太鼓を基準とした。桔梗門の西側には、蛤堀が通り、大手三の門手前を通り抜け天神堀に繁がり、二の丸と三の丸を分けていたが、今は埋められて無くなり、その上に皇居警察その他の建物が建っている。大手門の渡櫓門は、昭和20年繊細で焼失したが、戦後再建された。

三の丸尚蔵館
 宮内庁所管の博物館として1993年開館。
 1989年、昭和天皇の崩御後、皇室所有の美術品(御物)のうち固有化された美術品を展示する処で、2006年時点で約9,500点の美術品が収蔵されている。

同心番所・百人番所・大番所
 大手三の門の左手にあるのが、「同心番所」。警護役人としての同心が詰め、主として大名の供の監視にあたっていた。大手三の門を入って左側、中の門より手前にあるのが「百人番所」。鉄砲百人組と呼ばれ、甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組の4組が昼夜交代で詰め、各組にはそれぞれ同心百人が配属されていた。中の門を過ぎて右側にあるのが「大番所」。本丸の玄関が目と鼻の先なので、他の番所よりも身分の高い与力・同心によって警護されていた。前の坂を上がった所が本丸の入り口で中雀門があり、御三家は此処まで駕籠で入った。

富士見櫓
 本丸の南端に建つ三重の城櫓。明暦3(1657)年の大火(振袖火事)で、天守閣が焼失後は、保科正之(1611-72家光の異母弟)の意見もあって、以後天守閣は再建されず、富士見櫓が天守閣に代用され、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたといわれる。
 もとは、ここに太田道灌時代、富士見亭があったという。七基の三重櫓で唯一現存。

本丸
  本丸は、表・中奥・大奥に三区分される。
 表には、大広間や白書院・黒書院などを中心とする儀式の場と、老中ら幕府役人の会議室や執務室があった。   中奥は、将軍の私的居住空間。 
 大奥は、将軍の後宮で、上下二本の御鈴廊下を行き来していた。(主に上の廊下)

松の大廊下跡
 殿中大広間より更に西側に白書院へ続くL字形に東西約十間・南北十八間の畳敷きの大廊下で襖絵に松が描かれていた。浅野内匠頭と吉良上野介の刃傷事件で知られる。
襖絵によって廊下の名前や部屋の名前が呼ばれていた。

詰めの間
 大名は格式によって詰めの間(控え室)が異なった。

① 大廊下   御三家のほか加賀前田
② 溜の間   御家門・譜代の門閥大名、越前・高松・会津の各松平や井伊
③ 大広間   国主四品(四位)の外様大名、伊達・細川・黒田・安芸浅野・上杉
④ 帝鑑の間  城主格の譜代大名、大久保・戸田・堀田・内藤
⑤ 柳の間   五位の外様大名・高家肝煎、中川・松浦・松前・吉良
⑥ 雁の間   譜代大名の中大名・高家、板倉・稲葉・青山・阿部
⑦ 菊の間   三万石未満の譜代大名・大番頭・書院番頭・小姓組番頭
⑧ 芙蓉の間  寺社奉行・江戸町奉行・勘定奉行・大目付



大広間
 城内最大で最も格式の高い場所。将軍の謁見や公式行事が行われた場所。コの字型に配置され、上段・中段・下段・二之間・三之間・四之間とあり、縁側を含め広さ約500畳。

白書院
 大藩大名と謁見するやや小さめの公的な場所で、大広間に次ぐ格式を持つ。上段・下段・帝鑑之間・連歌之間がありそれらを入側が囲んでいる。広さ約300畳。

黒書院
 白書院に次ぐ格式の場で、白書院から竹の廊下を経た場所。表御殿中最も日常的な処。
上段・下段・西湖之間・囲炉裏之間があり、それらを入側が囲んでいる。広さ約190畳。

天守台
 明暦の大火(1657)で天守焼失石垣の表面も傷んでいたので、四代将軍家綱が加賀藩に命じ、前田綱紀が前面取り替えて復旧させたが、将軍補佐役の保科正之が展望の間にすぎぬ天守に費やすのは無駄と主張、再建計画図は残るも建造されず。

北桔梗門
 大田道灌の時代、ここが江戸城の大手だったと言われる。江戸城時代搦め手防衛のため、桔梗(ハネ橋)がかかっていた。今は高麗門のみ。

二の丸・三の丸・平河門
 二の丸は、家光が寛永13(1636)年、庭園を含む数奇屋風で将軍が政務を離れてくつろぐ御殿を造った。寛永20(1643)年には、嗣子竹千代(四代家綱)のための御殿に建て直し、以後九代家重の隠居用御殿、或いは前将軍の母の居所などに使われた。
 三の丸は、寛永20年御殿造営、綱吉の幼少時の居所であったり、母、桂昌院が居住した。平河門は、大奥女中の通用門でもあり、お局門とも呼ばれた。春日の局の門限おくれの逸話の他、死者や罪人が此の門から出るので、不浄門ともいわれた。

「文献」

世界大百科事典(平凡社) 歴史の散歩道(街と暮らし社) 江戸城の昔と今(望月アート企画者)
江戸城その歴史としくみ(学習研究社) 江戸時代(小学館) 江戸城本丸詳図(人文者)
江戸博覧強記(小学館)